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田原本町について 大和の、まんなか 奈良盆地の中央に位置し、約32,000人の人口を抱える田原本町は、⽥畑に囲まれ⼤和の原⾵景が望めるこの地には、重要⽂化財や遺跡、神社仏閣が多く存在します。また『能楽』の発祥の地、『桃太郎』生誕の地とも言われています。 奈良盆地の中で唯⼀残る古代の精霊宿る原⽣林にある村屋神社は、⽇本最古とされる⼤神神社の別宮とされ、古より両⽅をお参りすることで御利益があると⾔われ祈り続けられてきました。また、2200年前にあった弥⽣時代の環濠集落である国史跡唐古・鍵遺跡や、邪⾺台国説がある纒向遺跡などの遺跡、三輪⼭や⼆上⼭などの⼭々に囲まれ、“原点回帰”とも呼べるような体験をしていただけます。 さらに、⽥原本は⾷材についてもたくさんの“はじまり”を⽣んだ⼟地です。⼤和の稲作発祥地でもあり、秋には稲穂の揺れる壮⼤な景⾊が⾒られます。ほかには全国で流通しているスイカの栽培種の9割が⽥原本産であったり、邪気を払うとされている、⼩ぶりな「古代もも」はこの地域の遺跡から、たくさんの種が⾒つかっていたり。醸造⽂化発祥の地・農業・⾷⽂化の原点です。
唐古・鍵遺跡は、幾重もの環濠(ムラを洪⽔や敵から守るためのもの)に囲まれた、弥⽣時代の集落の遺跡です。 弥⽣時代前期から後期まで約700年もの⻑い間、途切れずに集落として存在し続け、最盛期には約42万㎡(甲⼦園10個分)という⼤きな⾯積を誇ったことなどが分かっています。 ⼤きな建造物の遺構や、⼟器・翡翠製勾玉をはじめとする多数の遺物が出⼟しています。また、⽇本各地から運び込まれた物もあり、すでにこの時代に地域を超えて広く交流が⾏われていたことが分かります。そのため、この遺跡は当時最先端の技術を持ち、近畿地⽅のリーダー的役割を果たしていた集落と考えられています。 弥⽣時代研究にとって⾮常に重要な遺跡であり、1999(平成11)年に遺跡の中⼼部分が国の史跡に指定されました。 遺跡で発⾒された⼟器⽚に描かれていた建物「楼閣」を、江⼾時代に築造された農業⽤溜池「唐古池」の南⻄隅に復元。 遺跡の、また町のシンボルタワーとなっています。地域住⺠によって植えられた桜が池を囲み、春には、美しい桜に彩られた楼閣の姿が⾒られます。
村屋神社、鏡作神社、多神社、池神社 延⻑5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳に記載された神社のこと。古事記を編纂した太安万侶をる多神社、古代伝承の息づく杜・村屋神社、秋祭りの⼭⾞が圧巻の池神社、古代鏡作の中⼼地で神宝「三神⼆獣鏡」が所蔵されている鏡作神社があります。
流鏑⾺はその技術を披露して祭神を楽しませようとする芸能の1つといわれ、春⽇⼤社の摂社である若宮神社の「春⽇若宮おん祭り」に、⼤和の武⼠が流鏑⾺を奉納する習慣がありました。 その中で「⼤和六党」という武⼠集団があり、⽥原本町域では「⻑⾕川党」と呼ばれる武⼠集団が活躍していました。 ⻑⾕川党の主要な構成員として現在の法貴寺集落を拠点としたとされる「法貴寺⼀党」があり、「春⽇若宮おん祭り」にて流鏑⾺を奉納していたとされ、これは南北朝時代(1384年)の歴史書物「⻑川流鏑⾺⽇記」に記載されています。 時代が流れ⼤和の武⼠団は衰退しましたが、地元天満宮(現在の池神社)の祭礼にて流鏑⾺の奉納があったと、江⼾時代初期(1672年)の「法貴寺旧例寺役調書」に記録があります。 唐古・鍵遺跡史跡公園で復活する流鏑⾺を通して、弥⽣時代、中世、現代と、この町の悠久の歴史を体感することができます。
奈良盆地の中央に位置し、夏は暑く冬は寒い典型的な盆地型気候の田原本。 豊かな土壌に恵まれ、農業は主要な地域産業となっています。 弥生時代の集落遺跡(唐古・鍵遺跡)からも分かるように、約2000年前から行われていた米作りを中心に、なす、ほんれんそうやイチゴ、大和の伝統野菜に認定された「味間いも」や、花卉(かき)、イチジクの栽培なども行われています。